SUEHIRO創業物語

ジュエリーSUEHIROは、「東京を代表するジュエリー専門店」、そして「“美と夢”を売る店」として、指輪を探し求めるカップルや、たくさんの宝石ファンたちに愛されながら、今年75周年を迎えます。
また警視庁や消防庁、防衛省などをはじめとする官公庁からも「指定店」として信頼されてきました。

官公庁の「指定店」として、公務員の方々も多く利用されている宝石店というのは、銀座や表参道の有名店の中にもそうそうありません。
このように、「東京を代表するジュエリー専門店」「官公庁指定店」「“美と夢”を売る店」として、「個性的」ながらも「絶対的信頼」を集めてきたジュエリーSUEHIRO。

SUEHIRO創業物語・店舗写真

その75年にわたる歴史の舞台裏には、「“美と夢”を売る」というテーマに生涯をかけて追及した創業者・岩瀬政次と、二代目社長であり、海を越えてヨーロッパ中の宝石商たちとの間に友情と信頼関係を結び、海外と日本を結ぶ宝石取引のネットワークを築いた岩瀬信広、そして二人を支えてきた従業員たちのドラマがありました。


『SUEHIRO創業物語』:目次

  1. 故郷の愛知から、鞄と夢を背負って -昭和20年-
  2. “美と夢”のはじまりは日本橋の片隅 隅田川の流れる『横山商店街』で
  3. 「問屋は値引きをしちゃいけない?そんなの誰が決めたんだ!?」
  4. 問屋街のタブーを破った先にみえた “お客が本当に欲しいもの”
  5. 『末広』から『SUEHIRO』へ ~息子・信広、海を渡る~
  6. “美と夢”のさらなる追求 ふたたび海を越えてベルギー・アントワープへ
  7. ユダヤ商人との邂逅
  8. “美と夢”を日本の津々浦々へ ~日本最初のインターネット販売開始~
  9. 『SUEHIRO』のジュエリーを日本中の人の手へ ~ジュエリー業界最初のEC販売を開始~

昭和20年代の街並み

創業者の岩瀬政次は、故郷の愛知・豊川から鞄ひとつで上京してきました。

23歳とまだ若い岩瀬青年には、胸に秘めた“大志”がありました。
「俺のアイデア、“美と夢を売る商売”を、この東京で花開かせるんだ……!」

……“美と夢を売る商売”。

今の世の中こそ、「モノよりも心が大切」という言葉は珍しくありません。
ですが、岩瀬青年が上京してきたのは昭和20年の9月。

太平洋戦争が終わってから一月も経っていない時期、当時の東京都民が絶望的なほどのモノ不足にあえいでいた状況です。

人々の生活も心も荒み、「綺麗事はいいからモノをよこせよ!」といわんばかりの緊迫感と殺伐が、街にも、そして人の心にも満ちていました。

今日の豊かな日本しか知らない私たちには想像出来ないような、この“何もない”時代に、青年・岩瀬政次の“美と夢を売る商売”はどうやってカタチになり、今日のジュエリーSUEHIROへとつながっていったのでしょうか?


政次が目を付けたのが、隅田川が流れる東京・横山町。

現在では、東京の中でもけっして知名度が高いとはいえないエリアです。
特に地方の方々にとっては、聞いたことのない場所のはず。

愛知から出てきたばかりの政次はなぜ、この場所に注目し、商売の第一歩をここから踏み出すことにしたのでしょう?

実はこの時期、横山町を中心とした問屋街、その名も“横山商店街”は、銀座を上回る規模のお店が軒を連ねる一大問屋街でした。
戦後間もない時期にもかかわらず、日本橋問屋街には衣服の材料になる生地や、化粧道具が大量に集まる商店街として、日本全国から商人が集まり、活気に満ちていたのです。

……皮肉なことかもしれませんが、多くの人達が物不足にあえぐこの時期だからこそ、“物という物が飛ぶように売れる”という、問屋商人にとって空前の活況が舞い込んでいたのです。

庶民が羨むような色鮮やかな着物が「所せまし」と並べられ、現金が飛び交う横山の商店街、羽振りよく大手を振って歩く問屋商人たち……。
その華やかに賑わう光景は、政次にとっても大変刺激的だったに違いありません。

政次は、上京してくる以前にも故郷愛知で人知れず、小さな商売の経験を積んでいました。

しかし、大都会東京の、それも銀座を上回る活況に沸く一大商店街を目にした政次には、これまでの人生経験を塗り替えられるような驚愕、そして……これまでの人生では感じたこともないような高揚感で、胸が締めつけられるのを感じたことでしょう。

「おれの“美と夢を売る商売”はぜったいにこの街で実現する!」

ついに彼の秘められていた“商才”が芽を出し、東京の下町にその大胆な足跡の第一歩を踏み出したのです。


「安く売るぞ!一人でも多くの人たちに、おれの考える“美と夢”を届けるんだ!」

当時の問屋街には、「問屋価格より安い値段で売るようなことがあってはならない」という、暗黙の掟がありました。

誰が決めたのかは分からない。
ですが、この掟は“絶対的なタブー”として、どんなに大胆な問屋商人でさえもあえて無視する者はいませんでした。
商店街全体を強力に縛りつけていたのです。

もちろんこのルールには、“値崩れ”を防いで、商店街全体が過酷な安売り競争に陥るのを予防する、という前向きな意味合いもあったでしょう。
とはいえ、戦争直後の貧しい庶民たちにとってこのようなルールは、買い物を楽しむ庶民たちを阻む「高い壁」となって立ちはだかっていたのも事実なのです。

「辛い戦争の時期がつづいて、みんな“買い物を楽しむ気持ち”を忘れているんだ」
「商売人同士の取引価格よりもっと安い価格で、いい品物を消費者に直接届ける役目を、誰かが担わなくては……!」

政次は、化粧品などを扱う装粧品問屋として商売をスタートしていました。
現在のジュエリーSUEHIROの原型となる、『末広』のはじまりです。

ところで、装粧品というのは食料品とちがって、手に入らなくては生きられない、というものではないかもしれません。

ですが、「戦争という破壊」とは対極にある、「女性がお洒落を楽しむ」という創造的な営みに必要不可欠な化粧品は、けっして「ぜいたく品」ではなく「女性が生きるための必需品」というべきでしょう。
ひとりでも多くの女性たちの手に化粧品を行き渡らせるためには、“値段を縛るルール”をただただ墨守するわけにはいかなかったのです。

こうして政次は、横山問屋街のタブーとして誰も触れられなかった「問屋価格からの値引き」に踏み切ったのです。

それだけではありません。

政次が目指していたのは、ただ単に「安売りをして他のお店よりも儲ける」というではなく、むしろ「“良い商品”をお客が求めやすい値段で、消費者に届ける」というものでした。
政次のイメージにピッタリ合うような“良い商品”を探すという事こそ、実は単に“価格を下げる”よりもずっと難しい仕事でした。

「お客さんを存分に喜ばせられる品物が見つからないなら、いっそこの店がメーカーになって、作ってしまおうか」

こうして、粧装品問屋を営んでいたSUEHIROは、メーカーとしてみずから品物を作るようになりました。

……商店街のお店というお店から猛烈な反発の声があがったのは、想像に難くありません。

「あの末広とかいう店、最近やってきたばかりの新参者のくせに何を考えているんだ……」
「あんなに商売の基本を知らない田舎者の店なんか、いまに潰れてしまうだろうよ」

商店街中のお店というお店は、ただ単に“暗黙の掟”を破った政次を非難しただけでなく、「所詮は田舎者」「商売を知らない素人」というふうなレッテルを貼りました。
「掟を破った怒り」だけでなく、「無知で可哀そう」と嘲笑するような雰囲気もありました。

ところが。
陰口をものともせず、愚直に「“美と夢”を届ける」ために突き進んだ政次と『末広』の商売は大当たり。
棚に並べる商品は飛ぶように売れ、商店街に店を構えて間もない『末広』は短期間で、横山商店街を代表する商店のひとつに発展しました。
ほんの短い期間で流れ込んできた富を元手に、政次は当時、横山商店街一帯で一番の高さを誇る、6階建ての本社ビルを建設しました。

当時の下町の人達にとって、6階建てというのは現代の高層タワーに匹敵する存在でした。
この時作られた本社ビルは、いまでも東日本橋の大通り沿いに現存しています。

政次が周りの声を押し切って始めた「問屋価格からの値引き」そして「商品の直接製造」は失敗するどころか、商店街の人々が予想もしなかったような大成功を収めたのです。


「“美と夢”を一人でも多くのお客に届ける」という使命感につき動かされるように、値引商売と製造販売を手掛けはじめた政次の商売。


横山商店街のランドマークタワーとなった『末広』の次なる一歩として、政次が力を注ぐようになったのが「消費者への直接販売」です。
これまた、商店街のタブーを破るような行動でした。

いまの世の中でこそ、メーカーがお客さんに直接商品を売るというのは普通にみられる事ですが、当時の人にとってそれは、「問屋の頭を飛び越えて商売をすること」であり、それを“問屋商売の価値を否定すること”と考える人達が数多くいました。

まして、当時の東京で最大の問屋街のひとつだった横山問屋街の真ん中で商売を営む『末広』がそのタブーを破ることは、「街中の問屋という問屋を敵に回す」という宣言とも取られかねない“危険な賭け”でした。

……ある意味、「田舎の商人」だった政次は、東京のやり方に縛られない「よそ者」であったからこそ、ここまで思い切った行動に踏み切れたのかもしれません。
もしも、代々この街に根を下ろす家系の出であれば、ここまでのリスクを冒すことは難しかったでしょう。

またなによりも、政次の「“美と夢”を売る」ことにかける情熱があったからこそ、このような冒険ができたに違いありません。
もしも政次が、いわゆる“世間体”のようなものを気にする性格であったならば、たとえ「田舎の出身で、失うものがない」からといって、ここまで大胆なやり方を押し通すことは絶対にできなかったはずです。

さて、問屋街のタブーを押し切って、商店街中を敵に回すようなリスクを背負う代償として得られたものは、単なる“金銭上の儲け”だけではありませんでした。
政次はこの時、のちのSUEHIROの商売のあり方を大きく左右する、とてつもなく重要な変化を経験しました。

それは、「SUEHIROの商品を使うお客さんの声が、“直接耳に届く”ようになった」ことです。

それまで、卸問屋だった『末広』が相手にしていたのは、他の問屋や小売店でした。
ですが、一般のお客さんたちに対して直接商売し、消費者の声を直接聞けるようになった政次は、この時「一般のお客さんたちの声を反映した商品を作ること」の大切さを学びました。

これまで、“猪突猛進”的に「美と夢を届ける」ことを目指してきた政次ですが、この頃から「届けたいものを届ける」ということに加えて「お客さんたちの思いに耳を傾ける」ことを重視した商売スタイルに転換していきます。

こうして、“信念の鬼”となって夢中で駆け抜けてきた創業初期が終わり、『末広』の商売は新しい時代へと入っていきます。


政次が、戦後間もない横山商店街で商売を開始してから三十余年。
商売をはじめて間もない頃、商店街中の人々から「あんな商売、すぐに潰れてしまうよ」と噂された『末広』は、激しい変化の連続だった昭和の時代をしぶとく生き残り、さらなる発展を遂げようとしていました。


業者からの評判よりも、「消費者の声に寄り添う」やり方を貫いたからこそ、時代の荒波にも耐え抜いてこれたのでしょう。

また、『末広』の商売スタイルに共感してくださった、数多くの固定客の方々の存在がありました。


というのも、この時点で『末広』は粧装品の販売にとどまらず、着物のデザインと販売を手掛けていました。
『末広』の着物を購入されたお客様の中には、大変ありがたいことに、商品を大変気に入って、お嬢様やお孫様へと受け継がれるほどのファンの方々がいたのです。

そんな中、これまで“猪突猛進”的な商売のスタイルで、横山商店街を代表するランドマーク的存在としての『末広』を築き上げた創業者・岩瀬政次から、息子である信広へと「“美と夢”を売る商売」のバトンタッチが行われようとしていました。

昭和56年。
店名も“末広がり”という言葉を意識した『末広』から、国際化の時期への突入を意識した『SUEHIRO』へと改められました。

この頃、入社したばかりの信広を中心に、『SUEHIRO』に「ジュエリー部門」が創設されることになりました。

まだ20代の若い信広は、「もしも親父のできなかったことをするとしたら?自分に何ができるだろう……?」と思い悩んでいました。
散々悩みぬいた信広は、やがて「ジュエリー部門を立ち上げたのだから、横山商店街、いや東京の誰よりも、宝石に詳しくならないと!」と考えるようになりました。
そして、ジュエリーについて最新の知見が集まる本場・アメリカに渡ることを決心します。

……アメリカ・ロサンゼルスで信広が目にしたのは、最新の知識や技術ばかりではありません。
そこには世界中から集まった、信広自身と同じ年頃の若者たちが、「ジュエリーの未来を担う」という気概を胸に日夜、熱意に満ちて研究に没頭している姿がありました。

最初、信広が渡米した時は、ただ宝石の知識に詳しくなることが目的でした。
一方で、信広が本場で目にしたのは、“宝石に詳しくなる”ことだけではなく、「ジュエリー業界を盛り上げる一員になること」、「ジュエリーのプロフェッショナルになり、ジュエリーの知識で人を喜ばせること」を目指す若者たちです。

このような若者たちの姿は、信広が幼いころから目にしてきた父・政次の「“美と夢”を売る商売」をする姿と重なるように感じられました。

宝石そのものだけでなく、宝石業界の未来を支える世界中の人材達の熱意に強く共感した信広。
この渡米経験をきっかけに、「ジュエリーを軸に、“美と夢を売る”というSUEHIROの使命を加速させる」ことを決心します。

信広はその後、「宝石のプロフェッショナルを養成する機関」として世界で最も権威のある『米国宝石協会(GIA)』での過酷なトレーニングに耐え抜き、宝石鑑定士の免許を取得。

アメリカで宝石についての知識を深める中で、

「“美を売る”というのは、単に美しい宝石やアクセサリーを売るというだけでなく、それを身に付けるお客様自身の魅力を引き出す商品を選んであげることだ」
「そのためにはお客様のことを知って、“お客様に合う品物を、お客様と一緒に作っていくこと”が必要なんじゃないのか?」

と考えるようになります。

帰国後は、世の中に先んじて「すでにある商品をただ売り出すだけではなく、“お客様が一番気に入ったダイヤモンド”を選んで、お好みのデザインのジュエリーを創っていく」という工夫を始めました。
(信広がこの時始めた販売手法は現在、“オリジナルオーダージュエリー”として、銀座や表参道にあるような大手宝石店を含め、たくさんの宝石店に広まっています)


日本中の宝石店に先駆けて、“オリジナルオーダージュエリー”の販売手法を確立した信広。

“宝石を身に付ける人自身に備わる魅力・美しさを引き出す”というコンセプトに、数えきれないほど多くのお客様達からの支持が殺到しました。

数多くのお客様が宝石を買い求めに訪れ、ジュエリー部門が『SUEHIRO』の新たな事業の柱として育ち、すべてが順調に進んでいるようにみえました。

しかし、信広の心に引っ掛かっていることがありました。
「世の中の一人でも多くの女性に“美と夢”を楽しんでもらいたいと願ってオーダーメイドを始めたはずだけれど、うちのお店に来てくださるのは“羽振りの良さそうな貴婦人のお客様”ばかりだ」ということです。

商売の利益という点でみれば、お金に余裕のあるお客様だけを相手にするというのは合理的です。
ですが、ジュエリー事業の経営が順調に発展していく日々にあっても、「本当にこれでいいのか……?」という信広の悩みもまた膨らんでいくのでした。

そんなある日、信広のもとへ、一本の国際電話が舞いこんできました。
それは、アメリカ留学時代に一緒に机を並べて学んだ、海外の友人からの連絡でした。

懐かしい昔話に花を咲かせるうちに、いつしか信広は友人へ、日ごろの悩みを吐き出すようにぶつけていました。
「ノブヒロ、そんなに悩むなら、世界中のダイヤモンド職人が集まるベルギーに飛んで、高品質なダイヤモンドを原価で買い付けてきたらどうだ?」

信広は雷に打たれたような衝撃を覚えました。
それまで信広は、アメリカで磨いた技術を存分に発揮してお客様を喜ばせる、ということには心を砕いてきたけれど、品質の優れた原石を直接本場から運んでくるというのは、これまであまり考えたことがありませんでした。

「ただしノブヒロ、気をつけろよ。ベルギーの商人は日本のビジネスマンみたいに生易しくないぞ」

友人の心配をありがたく思いながらも、信広の頭はすでに、再びの海外渡航で一杯になっていたのです。

こうして信広が降り立ったのが、ベルギー第二の都市・アントワープ。
日本では『フランダースの犬』などで有名ですが、実は世界中のダイヤモンド原石の85%が集まる“ダイヤモンドの聖地”としての顔もあります。

アントワープの一角に存在する、ユダヤ系宝石職人のギルドが運営する街区。


通称「ダイヤモンドストリート」という街は世界一宝石の取引が活発なことで知られています。
この街の中で取引される宝石の額があまりにも莫大で、ベルギー経済を左右するほど巨額であることから、宝石強盗を防ぐためにベルギー兵が派遣されて守りを固めているほど、特別に重要な場所なのです。

「アントワープの宝石市場を押さえるユダヤ商人を味方につければ、“世界一のダイヤモンド”を、“世界一安い価格”で手にいれることができる……!」
信広は、街の中でも有力なユダヤ商人の邸宅にあたりをつけ、勢いよくドアをノックします。

……ドアの軒先で待つ信広の耳に、家の奥から足音が近づいてくるのが聞こえます。
「すごい、いま聞こえてくるのは“世界一のダイヤモンド”が近づいてくる足音だ……!」

やがて、扉がガチャリと開く重々しい音がしました。

期待に胸を膨らませる信広の前に姿を現したのは……人の顔ではなく、ライフルの銃口でした。


一般的なイメージと異なり、ユダヤ商人は“目先の利益”よりも“世代を超えた商いの継承”を重んじます。
それは“人間関係を大事にする”というような生易しい感覚ではなく、むしろ、
「信用できる人間は世の中のごく一部に過ぎない」
「だから、信用できるごく一部の人とは子孫代々まで懇意にする。けれど、よそ者には簡単に心を許すべきではない」
という、過酷な環境を生き延びてきた彼らの厳格な思想に基づくものです。
このような姿勢は“血の団結”と呼ばれています。

彼らからすれば、玄関をノックしてくる見知らぬ日本人と、すぐに打ち解けるわけにはいかないのは当然とも言えるでしょう。

「これが“ベルギーの商人は生易しくない”ってことか……」

こうして、信広にとって初めてとなる、ダイヤモンドの本場・アントワープでの買い付けは失敗に終わりました。
ダイヤモンドの知識を持っているだけではどうにもならない、“商売の厳しさ”をあらためて痛感する信広。

ですが、一人でも多くの女性たちにダイヤモンドを届けるという使命を果たすためには、ここで諦めるわけにはいきません。
今度こそ取引を成功させ、ダイヤモンドの販路開拓を成功させるため、信広は再びベルギーへと渡ります。

ベルギー商人との信頼関係構築を目指す信広。
二度目のベルギー渡航に際しては、GIAでともに学んだ学友の協力を受けました。

信広がGIAで学んでいた時に、『末広』の将来を背負って立とうと必死だった信広の姿に共感した、ユダヤ人やインド人の学友たちが、信広の再挑戦をバックアップしてくれたのです。
特にユダヤ系の学友が、自分自身と人脈のつながりあるユダヤ商人に話を紹介してくれたことは、二度目のベルギー渡航において非常に大きな助けになりました。
信広の人柄や、「“美と夢”の追求」にかける真剣さについて、事前にユダヤ商人に伝えてくれていたのです。

このような学友たちの尽力のおかげもあり、もう「銃口を突き付けられるような」心配をすることもなく、信広は「学友や従業員たちの気持ちに必ず応えるぞ」という信念を胸に、再びアントワープを訪れたのでした。

ついに信広はユダヤ商人の邸宅に招き入れられることになりました。
ユダヤ商人の館で目にする、大小に積まれたダイヤモンドの“山”を前にして、アメリカでダイヤモンドの研鑽を積んだ信広でさえも度肝を抜かれました。

ただ、念願の「最高品質のダイヤモンドの入手ルート」を確保するためには、ここで委縮してはいられません。
信広は自分自身を奮い起こし、父の代から“美と夢を売る商売”を掲げつづけてきた末広について、熱く力説しました。
……話した時間としては一時間にも満たなかったはずですが、数十年続いてきた末広の歴史をその数十分に凝縮するような想いで語ったのです。

「……素晴らしい。ぜひ、あなたの経営する『SUEHIRO』と、これから何世代にもわたって取引していきたい」

こうして、世界最高級のダイヤモンドが集まるベルギー・アントワープから、ダイヤモンドを原価に近い低価格で直接仕入れすることになったのでした。


現在、最高品質のダイヤを買いやすい価格で取り扱っているのは、この時の開拓されたアントワープからの直接販路によって実現しているものなのです。


「最高級のダイヤモンドを庶民的な価格で販売する」、『SUEHIRO』のジュエリー事業は、横山商店街のみならず東京中で話題となりました。
また、“美と夢を売る”という志は政次・信広父子だけではなく、二人を支える従業員たちの心の中にもしっかりと共有されていったのです。

志が高く、質の高い人材が続々と入社してくるようになった『SUEHIRO』。
その優秀な人材たちに磨きをかけるために、信広は業界有数の人材教育を実施。
信広みずからが学んだアメリカ・米国宝石協会のカリキュラムを取り入れた、濃密なトレーニングで従業員を鍛えあげます。

その結果、『SUEHIRO』販売スタッフ達による洗練された接客は、ジュエリー業界に大きな反響を呼び起こします。

あまりの『SUEHIRO』の反響ぶりに、同業者の間ではSUEHIROの商売のやり方を真似しようとする動きもありました。
このような同業者の動きに対して、信広はじめ『SUEHIRO』従業員達は、「表面的なやり方にこだわらず、“お客様に良い商品を届けること”を第一に考え、地に足をつけた商売を忘れないようにしよう」という姿勢を貫きます。
この時期、日本経済はバブル景気の終わりに差し掛かり、ジュエリー業界においても多数の個人商店が経営に行き詰まり、中には倒産に追い込まれる店もありました。

そのような厳しい状況の中、『SUEHIRO』は「お客様に良い商品を届けること」に強くこだわり抜いた結果、来店されるお客様の心をガッチリと掴んでリピーターを着実に増やしながら、時代の荒波を乗り切ってきたのでした。


すでに東京においては盤石の顧客基盤を築き上げた『SUEHIRO』ですが、信広自身は「東京だけでなく、日本中のお客様へ『SUEHIRO』の商品を届けたい」と願い続けていました。

信広が『SUEHIRO』に入社してから13年目となる平成7年、ジュエリー業界では前代未聞ともいえる、「インターネットによるジュエリー販売」を開始しました。
当時、まだ始まったばかりの「Yahoo!ショッピング」では、20の業界から各1社ずつ、その業界を代表する企業を選び、出店を認めました。
『SUEHIRO』はジュエリー業界を代表する1社として選出され、“最初の20社”のなかの1社となりました。

その後も『SUEHIRO』は「楽天市場」や「Amazon」への参入を進めました。
これによって、『SUEHIRO』の商品は東京だけでなく、北は北海道から南は鹿児島や沖縄、また山間部や離島のお客様たちからも楽しんで頂けるようになりました。

この出来事は、ただ単に『SUEHIRO』の顧客数を増やしただけにはとどまりませんでした。
「インターネットで宝石を売る」という商売を『SUEHIRO』が始めたことは、ジュエリー業界全体に激震をもたらしました。
というのも、大きなジュエリーショップがない地域の方々であっても、一流のダイヤモンドや宝石を自宅で気軽に、都会の人たちと同じ条件でお買い求められるようになったのです。

「“美と夢”を売る」という創業以来の精神を、単なる“建前”や“綺麗事”ではなく現実のものにしよう、と、信広が考え抜いた末に踏み切ることになったインターネット販売。
この「Yahoo!ショッピング」をはじめとした各ECサイトへの展開が成功を収めた後も、『SUEHIRO』自身が運営する自社サイトを創設し、ダイヤモンドやプロポーズについての情報を発信するなど、「日本中の人が、東京に住む人とまったく同じように“美と夢”を手に入れられる」ような状況を目指して日々邁進しています。

昭和20年、若い政次の夢から始まり、信広や従業員たちに受け継がれて、創業から75周年をむかえた『SUEHIRO』。
この75年のあいだ、『SUEHIRO』で買い物をされるお客様がより美しくなり、毎日を楽しく迎えられるような商売を目指して、絶え間なく創意工夫を重ねてきました。

今では、結婚指輪や婚約指輪用のジュエリーの販売に携わる中で、購入されたお客様の結婚生活がより一層幸せになれるために、「お客様にとって一番似合う品物を見定め、プロの立場から提案する」ということを徹底しています。
また、これからプロポーズに挑む男性にとっても、プロポーズが必ず成功するよう、確かなアドバイスを差し上げる自信があります。

ただ単に「良い品物を売る」だけでなく、『SUEHIRO』に関わるお客様の人生を充実させるためのサポートを提供するお店として、これからも『SUEHIRO』は新たな挑戦を続けていきます。

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